セットした筈の目覚まし時計がうんともすんとも云わなくて。
全速力で走らせていた自転車がパンクして。
呆然としていたところに横切った車が水飛沫を飛ばしてきて。(ちなみに昨夜は豪雨だった)
びしょびしょになった姿を馬鹿にするように、一声鳴いた黒猫が通りすぎた。
アンラッキーハッピーデイ
それからも散々だった。
結局朝練には間に合わなかったし、服と一緒に昼ご飯まで濡れているし、4時間目が長引いたせいで購買のパンは売り切れているし。
その他まだまだ、数えきれないほどの不運な出来事が、この短い24時間にも満たない間に起きていた。
厄日にしたって、もう少し小分けになっているものじゃないのか。
沖はぐったりとした様子で、深々とため息を吐いた。
「大丈夫?沖」
「はは・・・いま、オレに近づくと不運がうつるよ」
穏やかな声にちらりと視線を投げ、口から出たのは馬鹿な戯れ言。
疲れすぎて、正常な思考というものが働いていないのかもしれない。
そんな沖に西広は苦笑を浮かべ、肩をぽんぽんと叩いてきた。
「なにを馬鹿なこと言ってるんだよ。だいたい、今日はずっと一緒にいたでしょ」
「うぅー・・・」
「ほら、もうすぐ部室だか・・・あっ」
と、西広が突然動きを止め、小さく声を上げる。
何事かと思って、沖は首を傾げた。
「どうしたの西広?」
「いや、うん・・・忘れ物、してきちゃって」
あははと、西広が困ったように笑う。
沖は数度目を瞬かせ、はたと気が付く。
もしかして、もしかするんじゃないか。そう、
「やっぱり、西広にオレの不運が・・・」
「もう、沖。そんなことあるわけないでしょ」
「でも・・・」
「オレがうっかりしてただけなんだから、そんな気にしないでよ」
沖の戯れ言を一蹴して、西広はにこりと笑う。
くるりと踵を返すと、片手でごめんと示した。
「悪いんだけど、先に行ってて。取りに行ってくるよ」
「えっ?あっ、うん。分かった」
「じゃあ、ちょっと行ってくるね」
妙にしどろもどろな沖の返事に苦笑を漏らしながら、西広はいま来た道を引き返していく。
その後ろ姿を見送りながら、沖は重たいため息を吐き出した。
自分がいかに馬鹿なことを言っているのかくらい、自分がいちばんよく分かっている。
それでもこの瞬間に起きている全ての不運が、なにもかも自分のせいのような気がしてきて仕方がないのだ。
大体、あの西広が忘れ物をするなんて。
やっぱり案外、錯覚なんかじゃないかもしれない。
そんなことをぐるぐると本気で考えながら、沖は漸く部室まで辿り着いた。
がちゃりと、ドアノブを回す。
そこで一斉に自分に集まる視線を確認して、背筋がひやりとする。
いままさに確信した。
今日は最高の、アンラッキーデイらしい。
「どうしたのさ、そんなとこにつったって」
にこにこと笑顔の栄口に声を掛けられ、止まっていた思考が動きだす。
沖はぎこちない笑みを彼に返すと、恐る恐る部室へと足を踏み入れた。
「沖一?なんかびくびくしてねぇ?」
「そ、そんなことないよ」
あっけらかんとした田島にズバリ言い当てられ、びくりとなりながらもなんとか笑みを浮かべる。
田島はふーんと興味なさそうに呟いて、そのまま着替えを再開させた。
どうでもいいなら聞くなと沖は心底思う。
が、思うだけで決して口には出さない。(恐いから)
そんな沖の様子を見てか、水谷が面白そうにからからと笑った。
「阿部が恐い顔して睨むからでしょー」
「なっ・・・」
「んだと、クソレ」
「ほらぁ、阿部ってばすぐ怒る」
「怒ってねぇよ!」
水谷、なんて余計なことをと思いつつ、阿部の怒りの矛先が自分に向かないうちに、そそくさと移動する。
だがそのかい虚しく、
「沖も変にびくびくしてんじゃねぇよ!」
捕手様の怒声につかまってしまう。
沖は内心泣き出したい思いで、阿部のほうに視線を向けた。
そのとき目に入った水谷が口元に笑みを浮かべていたのは、気のせいだと信じたい。
「べ、別にびくびくなんかしてないってば」
「はぁ?どう見たってしてるだろうが」
「ひっ・・・」
がっと阿部に詰め寄られて、沖から悲鳴に近い声が漏れる。
いい加減そのいじめのような光景にまずいと思ったのか、栄口がやんわりと2人の間に割って入った。
「阿部。そのへんにしときなよ」
「オレは別にっ・・・」
「はいはい。花井もいないんだから、大人しくしててよ」
面倒くさい、とにっこり続けられた言葉は、聞かなかったことにして。
沖は栄口に、若干引きつりながらの笑顔を向けた。
「ありがと、栄口」
「あはは、災難だったね」
「えっ、あ。そ、そういえば、花井がいないのって珍しいね。他のみんなもいないし」
栄口の言葉にまったくだと思いながらも、それを言うことなどできなくて。
なんとか違う話題を探して、ぱっと出てきたのがこれだっただけで。
そう、深い意味など何もなかったのだ。
彼の所在を確かめようとしたなんてこと決して。
「花井は、シガポに呼ばれて職員室だよー」
「巣山は掃除当番で遅れるって」
水谷と栄口が人好きのする笑みで、沖の質問に答えてくれる。そして、
「ちなみに三橋も掃除当番だ」
それまで着替えに撤していた泉が、無表情に言い放った。
パタンと、ロッカーの閉まる乾いた音が響く。
妙な威圧感に、沖は何も言えずにいて。
「そーなんだよ。待ってるって言ったのにさ、先行っててって言われちまったんだよなぁ」
重苦しくなった空気など意にかいさないように、田島が厭に明るい声で泉に続く。
それが皮切りになったのか、5人それぞれがゆっくりと沖に詰め寄ってくる。
そーいえば、なんて明らかにわざとらしく、水谷がへにゃりと笑った。
「今日の朝練、沖来てなかったもんねー?」
「ああ、だから三橋に会ってないんだ」
「自業自得だろ、そんなもん」
だんだんと壁ぎわに追い詰められていき、遂に、とんと背中が当たる。
ああこれでもう、逃げ道が無くなってしまった。(もとよりそんなものがあったのかは甚だ疑問だが)
「三橋もスゲー心配してたぞ」
「教室でも、ずっと沖くん沖くん言ってたしな」
その言葉がどうやら本当であるらしいことは、目の前の彼らの本気モードが証明してくれていて。
少しだけ気分が上昇して、しかし直ぐに現在の状況を思い出す。
一体彼らは、これから何をする気なんだろうか。
西広、いや、ここから助けてくれるのなら誰でもいい。
軽く意識が飛びそうになっている頭で必死に祈る。
誰か、お願い−−−
「沖、くんっ!」
そして救いの女神は、現れた。
* * * * *
「あれ、三橋?」
忘れ物を手に急いで部室へと向かっている途中、ひょこひょこと歩いている後ろ姿を見つけ、自分でも知らないうちに声を掛けてしまっていた。
それに振り返ってきたのはやはり三橋で、西広の姿に気付くと、嬉しそうに駆け寄ってくる。
「西、広くん!」
「偶然だね。三橋も今から部室?」
問いかけると、こくんと可愛らしく頷いてくる。
「オレ、掃除当、番で」
「そっか。泉たちは先に部室行ってるんだね」
過保護な9組にしては珍しいこともあるものだ。
すると三橋が、困ったようにへにょりと眉を下げた。
「泉くん、と田島くんは、待ってるって、でも、オレ、遅れたらって、思ったから」
「ああ。泉たちが遅れたら困ると思って、三橋が先に行ってて言ったんだ」
納得したように西広が確認すると、何故か三橋がしゅんとしてしまう。
どうしたのかと一瞬慌てるが、直ぐにその理由に思い当たった。
なるべく三橋を安心させられるように、にこりと笑みを浮かべる。
「大丈夫だよ、三橋。泉も田島も怒ってないから」
「ふぇ?」
「きっと嬉しいって思ってるよ」
「ほ、ほん、とに?」
「もちろん」
自信を持って頷くと、途端に三橋の顔がぱあっと明るくなる。
心配してくれて怒るわけがないのに、三橋の場合断ってしまったというのが先に来てしまうんだろう。
まだまだだなぁと思って、西広は小さく溜め息を吐いた。
「あ、の。西広、くんは?」
「えっ、オレ?」
そんなときに三橋から話し掛けられ、少し慌ててしまう。
だが直ぐに頭を落ち着かせ、困ったように苦笑した。
「オレは忘れ物しちゃって」
「忘れ、物」
「そう。ケータイをね、うっかり教室に置き忘れてきちゃったんだ」
「あ、あって、よかった、ね!」
控え目ながらもしっかりと三橋が笑みを浮かべていてくれて、西広の顔も自然と緩む。
しかしだんだんと、その三橋の顔が曇っていく。
流石に今度はまったく理由が分からずに、西広が問いかけようとする一歩前、三橋が声を上げた。
「沖、くんは、元気です、か?」
「え?沖?」
「う、ん。オレ、朝練とかいな、くて、心配だったんだ、けど」
言いながら、三橋は悲しそうに俯いてしまう。
そういえば、今日は校内で三橋に会うことはなかった。
それはつまり、ずっと一緒にいた沖も同じだということで。
あんまり元気そうじゃなかったよなぁと思って、西広は苦笑を浮かべた。
「うーん・・・沖かぁ・・・」
「お、オレ、メールしよう、と思って、でも田島くんが・・・いて、そ、それで、ひ、昼休みに会いに行こ、うと思ったんだ、けど、泉、くんが・・・きて、」
こんなに三橋が一気に喋るのも珍しくて、それほど沖のことが心配だったのだろう。
いや、それよりも気になったのは、
「・・・田島?泉?」
正直何が言いたいのかはよく分からなかったが、この名前が出てきたということは、ほぼ間違いないだろう。
「邪魔したのか・・・」
思わずぼそりと呟いてしまっただけで、聞かせる気などさらさらなかった。
なかったのだが、どうやらしっかりばっちり聞かれてしまっていたようで。
「じゃ、ま・・・?」
ぽかんとしたように、三橋が西広のことを見上げてきた。
「泉くん、と、田島くんが、邪魔?」
「ち、違うよ!?そんなことないから!」
「ど、して・・・そんな、こと・・・」
珍しく大慌てしている西広の言葉などまるで聞いていないようで、三橋はウンウンと考えて込んでしまう。
このままだと非常にまずい。
三橋に余計なことを吹き込んだと知られれば、どんな末路がまっているのか。
考えただけでも恐ろしいことを考えていると、三橋がはっとしたように声を上げた。
「もし、かして・・・沖くんのこと、好きだか、ら?」
「三橋!?」
ないない、それはないから!なんて思っても、いまの三橋に果たして届くかどうか。
取り敢えず話の流れを変えたくて、辺りを見回す。
と、こんな状況でもしっかり足を進めていたお陰か、目の前には部室が迫ってきていた。
西広はここぞとばかりに、部室を指差す。
「ほら、三橋!部室だよ。野球!」
「や、きゅう?」
流石、野球の効果は絶大なようで、三橋が部室のほうに目線を向ける。
なんとか興味を移せたようで、西広は心底ほっとした。改めて、部室に目を向ける。
「ほら、きっとみんなもう来てる・・・って、あれ?」
「部室、開いてる、ね」
「うん。どうしたんだろ」
すると何故か部室の扉が開きっぱなしで、2人揃って首を傾げる。
何かあったのかと、足早に部室へとむかう。
近づくにつれて、はっきりとしてくる光景。
中にいるのは栄口、阿部、水谷、田島に泉。そしてその真ん中に、顔面蒼白な沖の姿。
(うわっ・・・)
これは大変まずいんじゃないかと思って西広が声を上げようとした瞬間、
「沖、くんっ!」
部活以外では滅多に聞くことの出来ない、三橋の大声が響いた。
* * * * *
初めはあまりの恐怖から幻聴を聞いたのかと思った。
ゆっくりと、視線を動かしていく。
沖に詰め寄っていた彼らも、その声に驚き固まっていた。
「み、はし・・・」
久しぶりに声を発したかのような、擦れた声が沖の口から漏れる。
そこには確かに、いた。
幻聴でも幻覚でもなく、確かに救いの女神が立っていた。
「沖くんっ」
嬉しそうに再び沖の名前を呼び、阿部と泉のあいだを抜けて勢いよく抱きついてくる。
軽い衝撃によろけそうになりながらも、ぎゅっとその華奢な身体を抱き止めた。
あったかな体温が、じんわりと沖に染み込んでいく。
ああ、幸せかもしれない。
「み、三橋?」
と、いち早く立ち直ったらしい栄口が、若干うわずりながら呼び掛けてくる。
沖がはっとして栄口のことを見ると、眉間に深く刻まれたシワがぴくぴくと動いていた。
(いつまで抱き締めてるんだよ、さっさと離しやがれこの野郎)
なんて心の声が、今にも聞こえてきそうである。
どうしようと、沖は動いていない頭で必死に考える。
離しても離さなくても、たどる末路はどちらも同じような気がしてならない。
がぁぁっと、頭を掻き毟りたくなったときだった。
ぎゅうっと。
さらにキツく三橋が抱き付いてきて、沖は驚いて目を瞬かせる。
恥ずかしがり屋の、あの、三橋が。
感動と喜びと恥ずかしさが入り混じって、何が何だか分からなくなってきた。
沖が色々と混乱しながら三橋の顔を覗き込む。
そして三橋から放たれた言葉は、
「オ、レ・・・頑張る、ね!」
「へ?」
何をと問うまえに、ふんわり笑顔を向けられて。
三橋は少し潤んだ瞳で、上目遣いに自分たちを取り囲んでいる彼らに目を向けた。
「沖くん、はっ。オレのなんだから、ねっ!」
はっ?と声にならない声が重なる。
視線の中心は、言い終えて満足そうにしながらも、恥ずかしいのか顔を隠すようにぎゅっと沖に抱きつく三橋の姿。
ああ、なんていうかこれは。
「かわいい・・・」
そう、可愛いのだ。とてつもなく。
ポツリと呟かれた水谷の言葉に同意しかけ、いやいやそんな場合じゃないと思い直す。
けれどその疑問を口にしたのは、沖ではなかった。
「なんつった三橋?」
阿部が顔を引きつらせながら、三橋に問いかける。
途端集まったいつつの視線にびくりとなりながらも、三橋ははっきりと、
「沖くん、は、オレのだから、駄目なん、だよっ」
それはもう聞き間違えのないほど、キッパリと断言してくれちゃったわけで。
彼らが灰になるのに、そう時間はかからなかった。
「三橋っ・・・!」
沖はあまりの嬉しさに感情の行き場がなくて、ただ力一杯三橋のことを抱き締める。
何がどうしてあんな宣言をしてくれたのかは分からないが、そんなことはどうでもよかった。
「沖、くん」
「ねぇ、三橋も・・・」
「うぇ?」
「三橋もオレの、かな?」
こんな時にも自信の持てない自分が情けない。
照れ隠しのような笑みを向けながら聞くと、三橋が驚いたように目をパチパチとさせる。
その顔がだんだんとふわりと緩んでいって、
「オレも、沖くんの!」
あんなについていない1日だと思ったのに。
まさか一瞬でこんなにも幸せな日に変わってしまうなんて。
まあつまるところ、君と一緒にいられれば幸せってことなのかもしれない。
「なんだ、これ」
部室前でどうするべきかと固まっていた西広に、巣山が思い切り眉を潜めて問い掛けてくる。
西広はうーんと少し考えて、にっこりと笑みを浮かべた。
「三橋は誰かに嫌われるのも気にならないくらい、沖のことが好きなんだってことだよ」
「はあ?」
その言葉に、巣山がさらに眉間にシワを寄せる。
そんな巣山に西広は楽しそうに笑いながら、2人へと目を向けた。
さっきはたったアレだけのことで不安になっていたのに。
多分、沖が皆に盗られると思ったんだろう。
つまりそれは彼にとって、何事にも変えがたいものだということで。
「妬けるなぁ・・・」
「ん、何か言ったか?」
「何でもないよ。ただ、早くこれをなんとかしないとなって」
「あー・・・」
「よし、行こう。巣山」
心底嫌そうな巣山を引っ張って、気合いを入れて部室へと足を踏み入れる。
絶対後で、沖のことを冷やかしてやろう。そう心に決めて、西広は小さく忍び笑った。