表と裏の境界線
これだけ距離が離れているにも関わらず、こんなにもはっきり怒鳴り声が聞こえてくるのはどうなのだろう。
えげつない、というかなんと言うか。
「花井は残酷だよね」
突然背後から声を掛けられ、びくりと竦み上がる。
一瞬思考と彼の言葉が霧散しかけたが、直ぐに形となって戻ってきた。
目線だけで、後ろを振り向く。
「阿部の間違いだろ?」
「いや、花井であってるよ」
「おい、勘弁してくれ」
これ以上オレに何を求める気だ。
花井がげんなりしながら告げると、くすっと人好きのする笑みが返ってきた。
けれどそれを表情通りに捉えていけないのは、野球部周知の事実。
はあっと疲れたように溜め息を吐きながら、ほらと指を指し示した。
「あれ見ろよ」
「うん、また阿部が怒鳴ってるんだね」
「だろ。だから・・・」
あとの言葉は、最後まで続けることが出来なかった。
明らかに、彼を取り巻く空気が変わる。
威圧感というよりは、殺気か。ああ、面倒くさい。
花井は怯えたようにびくびくしながら、彼を見上げた。
「さっ、栄口・・・さ、ん?」
「なんで助けないの?」
「は?」
「ずっと、見てたんでしょ」
薄っぺらな笑みのなか、その眼だけが鋭く光っていた。
花井はうっと怯んだあと、しどろもどろに口を開く。
「そ、それはっ・・・けど、栄口だって!」
「オレは助けてるよ、花井も知っての通り」
「ぐっ・・・し、かたないだろ!オレだって命はおしいんだよっ」
逆ギレのように叫んだ花井に、深い溜め息が投げ掛けられる。
ちらりとそこに視線を向け、直ぐに花井へと戻した。
にこっと、実に可愛らしく笑みを浮かべる。
「阿部は素直だよ、スゴくね」
「・・・素直?あれが?」
怪訝そうに眉根を寄せながら、花井は内心舌打ちする。
普段は自分のほうが背が高いのに、座っているせいでいまは見下されているようだ。
まったく、気分が悪いことこの上ない。
「力による絶対的な支配」
しんと、辺りが静まりかえる。
あれだけ騒がしかった阿部の怒鳴り声も、どこかへいってしまったようだった。
花井はいつの間にか、無表情に栄口のことを見上げていた。
「分かりやすいだろ、実にさ」
「そうだな」
「花井はさ、その反対。オレや泉なんかは阿部よりだけど」
「・・・で?」
それが何?
明らかにそう問い掛けてくる視線に、栄口は一瞬怯みそうになる。
ぐっと拳に力を籠め、自身を奮い立たせた。
「優しくするくせに、突き放す。甘やかしておきながら、平気で手を離す」
「ひとりにばかりかまってられないからな」
「そう、知ってた?」
「何を」
「笑顔も涙も自由自在なのって、花井だけなんだよ」
誰を、なんてことは花井も聞かないし、栄口も言う気はない。
誰もが(勿論一部は除くが)泣かせまいと必死になっているのに、それを平気でするのだ。
あの子が泣けば、フォローしに行くのは当然で。
知っているんだ。
そこで絶対に、怒った奴のことを悪く言わないってこと。
いっそそれだけだったら阿部と変わらないのに。
栄口は更にキツく拳を握り締める。
アメとムチ、そんな言葉で片付けていいものか。
長い長い、沈黙。
それを打ち破ったのは、花井の深い溜め息だった。
「そんなこと、栄口の勘違いだろ」
「また逃げるの?」
鋭く睨み付ける栄口の視線を平然と受け止めながら、花井がどっこらしょと立ち上がる。
いつもの世話好きの笑みを浮かべながら、栄口を見つめ返した。
「逃げるって、何からだよ。疲れてるんじゃないのか?」
「花井!」
「ああ、分かった。分かったよ、今度聞いてやるから」
苦笑しながら、花井がぽんぽんと栄口の頭を叩く。
しっかり休めよ、なんてどこまで人のことを馬鹿にする気なんだ。
やりきれない気分で、栄口は唇を噛み締める。
もう一度、今度はここから叫んでやろうか。
そんな風に思った時だった。
「栄口」
名前を呼ばれ、はっとして顔を上げる。
少し離れたところに、花井が腰に手を当てて立っていた。
「ひとつ、いいこと教えてやろうか」
「・・・いいこと?」
「ああ」
尋ねた栄口に、花井が大仰に頷く。
なんとも花井らしくない仕草だが、不思議と違和感はなかった。
「お前らは、絶対にオレには勝てない」
「どういう、こと?」
「どうもこうも」
はっと、栄口を嘲笑うように鼻をならす。
栄口は無意識のうちに、一歩後退っていた。
「オレは主将だぜ?」
そうにやりと笑った顔は、まさに主将そのものだった。
いつの間にか止めていたらしい息を、ふっと吐き出す。
酸素の回ってきた頭は、けれどまだ正常な働きはしてくれそうもなかった。
「やっぱり残酷だよ、花井は」
呟きは、風にのって消えていく。
聞かせるべき相手の姿は、既に何処にもなかった。